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  ポポフ(POPOF)はポレポレ基金(Polepole Foundation)の略称1992年にザイール共和国で設立されたNG0(非政府・非営利団体)一。ポレポレとは「ぼちぼち」という意味のスワヒリ語で、あせらずにゆっくりと連動の輪を広げていこうという気持ちがこめられます。

  ポフポフの目的は、ザイール東部にあるカフジ・ビエガ国立公園の.で自然現境の保全、絶滅の危機に瀕する東ローランドゴリラの、地域振興、自然保護教育を実践することにあります。会員はほとんど国立公園周辺に居住する地元の人々で、調査団をして土壌や動植物相の現状を調査したり、観光客に配布するパレットや絵はがきをつくったり、地元でエコ・ツーリズムを推進するための活動をしています。

 こういったポポフの活動を支援するために、日本支部ではカフジ・ビエガ国立公園や東ローランドを紹介するパンフレットや絵はがを作成して販売し、展示会、講演会を開いて寄付金を募り、現必要な物品を購入する資金にあてています。また、民芸品を作る技術やアイデア、自然保護教育のための教材を提供したりします。日本ではまだポポフの会員を募集するまでには至っていんが、将来日本からも人材を派遣してより国際的な活動ができうにしていきたいと思っています。

 ポポフニュースは、最近のポポフの活動を紹介し、今までに日本められた責金がどのような活動に使われたかを報告するニューレターです。現地の人々やゴリラの近況についても報告していと思います。また、ポポフが創作したポポフグッズや絵はがき販売についても紹介いたしますので、お知り合いで輿味のある方ぜひ伝えていただきたいと願っています。
 

活動報告


日本での活動
1996年5月18日
「動物園ゼミナール-森の巨人・ゴリラ」

上野動物園(東京)
講演:「野生ゴリラの生態と保護」
山極寿一(京都大学霊長類研究所)
1996年6月一7月
「アフリカ・フェア」ヘポポフ・グッズ出展
ウィルあいち、風'S(名古屋)
1996年7月23日一28日
「ザイールのアートとポポフ」展  堺町画廊(京都)
   7月28日
講演:「ゴリラの森に暮らす」
山極寿一(京都大学霊長類研究所)
「ザイールの伝統社会と自然保護」
バサボセ・カニュニ(ザイール中央科学研究所)
堺町画廊(京都)
1996年8月12日一18日
国際霊長類学会  ウィスコンシン大(米国)
発表:「東ローランドゴリラの保護の展望」
山極寿一(京都大学霊長類研究所)
「東ローランドゴリラの保護政策と案状」
マンコト・マ・オイセンズウ(ザイール自然保護局)
1996年9月20日
次世代の動物園を考える会  フロイデ(犬山)
講演:「ゴリラの保護と人々の暮らし」
山極寿一(京都大学霊長類研究所)
1997年2月11日一3月15日
「ゴリラのすむ村」展  上野動物園

(株)カヨー・コーポレーションが、販売するゴリラのぬいぐるみが一っ売れる毎に1米ドルをポポフに寄付してくれることになっています。ポポフとしてはこの販売にポポフのマークを使用することを了承しています。

名古屋の風'sや京都のクレエなど、ポポフの主旨に賛同していただいたいくつかのお店にポポフ・グッズを置かしていただき、委託販売をしています。


 
 募金報告(1997年1月まで)
 
収    入
支    出
ポポフ・
  グッズ

売上・
  寄付  

206,000
はがき製作費
74,780
名古屋
9,900
絵画額装費
23,945
京 都
295,565
事務・展示用品
18,211
犬 山
77,130
京都展雑費
18,199
その他
28,600
交通費
2,430
クレエ委託販売
59,160
コピー代
2,531
郵便振替
353,780
ポポフ・グツズ送料
36,990
    ポポフ絵の具、紙
6,915
    ポポフヘ送金
218,780
    パサボセ氏滞在費
100,000
    操越金
527,656
1,030,135
1,030,135

ザイールでの活動

  山極寿一昨年6月に私が現地を訪れた頃は、ポポフの活動は順調に進んでいました。ポポフの工房では、ザイールにしか生息1,030,135していない東ローランドゴリラのペンダント、布製ワッペン、木彫りのゴリラの彫刻や仮面などの民芸品を製作し、これらの製品はすでに隣国へ流れて販売されるまでになっていました。土地問題の調停も進み、高地と低地を結ぷ白然の回廊を手つかずに残そうということで、地元の人々との話し合いがもたれていました。この回廊が人手によって破壊されてしまえぱ、ゾウ、モリオオイノシシ、ゴリラ、チンパンジーなど多くの哺乳動物は自由に高地と低地を行き来できなくなるのです。ポポフのメンパーがこの回廊を農地にしたがっている人々を説得したおかげで、自然を壊さずに動物たちと共存していこうという気運が生まれてきたのです。

  6-7月にカフジ・ビエガ国立公園において、国際的なNGOのWCS(Wild1ife Conservation Society)の主催で行われた大型哺乳類の生息数調査には、多くのポポフのメンパーが参加し、これまでの知識と経験を生かして調査の主力を担いました。おかげさまで、後述するようにほぼすべての地域をくまなく踏査することができ、貴重な情報を集めることができました。ポポフのメンバー以外にも調査員、キャンプ・キーパー、運搬人、運転手などとして雇いあげられた地元の人々も多く、保護活動に貢献することで現金収入が得られるという認識が広がりました。その後も定期的なモニタリングを継続するように提言しています。

  1994年以来、隣国ルワンダから流入した人々は依然として国立公園のすぐ近くにある難民キャンプで暮らしていました。ポポフのメンバーは難民の援助でやってきた国連の組織や国際的なNGOと協力して、難民と地元民とのトラプルを調停したり、薪を供給する仕事に携わっていました。これらの活動を通じて、何とか国立公園内に人々が侵入するのを防ぎ、自然資源の破壊をくい止めようとしていたのです。その後9月までは、ザイール東部は何とか平和に保たれ、ポポフの活動も人々の暖かい理解のもとに進められていました。10月のはじめには、ザイール中央科学研究所の副所長バルク・バジョペ氏が来日し、ポポフのメンバーたちの活躍ぷりを伝えてくれました。バジョペ氏は鹿児島県の屋久島を視察し、ザイール東部の山地林との類似性に鷲いていました。そして、ゆくゆくは屋久島とザイールの人々が協力して両地域でエコ・ツーリズムを発展させようという夢を語っていたのです。ポポフの将来もパラ色に見えました。

  ところが、10月の中頃になると東ザイールに内戦が勃発し、戦火は南のタンガニー力湖周辺から急速に北へ飛び火して、ポポフの活動拠点に迫りました。この時点でカフジ・ビェガ国立公園からわずか30kmにある大都市ブカブでは政府高官が逃げ出しはじめ、幹線道路や空港は犬混雑となりました。内戦を起こした人々がルワンダ難民たちの反対勢力であったため、難民キャンプにも大きな緊張が走りました。ルワンダにもどるわけにもいかない難民たちは、一斉に国立公園内へ逃げ込むことになったのです。

  10月26日、反政府軍がプカプに侵攻すると人々は先を争って森へと逃げ込みました。反政府軍は兵隊とみなした人々へすぺて銃弾を浴びせたそうで、兵隊のような格好をしていたために間違って殺された入々も多かったようです。不運なことに、国立公園の監視員たちは兵隊とよく似た服を着て銃をかついでいます.このため監視員たちは問違われるのを恐れて皆逃げてしまい、公園は人々が自由に出入りができるようになりました。

  こうした事情を、私は戦火を逃れてきたバサボセ・カニュニさんから聞きました。バサボセさんは戦火が一時収まった12月に、私がケニア、ウガンダに滞在していることを知り、しゃにむに国境を越えて私に会いにきたのです。パサボセさんはこれまでゴリラやチンパンジーの調査をともにし、ポポフのメンパーとして保護活動を行ってきた犬切な仲間です。7,8月に来日し、「ザイールの伝統社会と自然保護」について講演してくれたぱかりです。このままザイールにもどるのはあまりにも危険すぎると判断した私は、バサボセさんに一時日本へ来てもらって、これまでの資科整理やポポフの普及活動をしてもらおうと考えました。ポポフの基金からバサポセさんの滞在費を10万円計上させていただきました。

  バサボセさんの話によると、ポポフのメンパーの消息はまだよくわかっていません.カフジ・ビエガ国立公園の公園長マンコト・マ・オイセンズウさんはブカブにとどまっています。身辺を拘束されてはいませんが、公園にもどることは許されていないようです。公園の詰め所は反政府軍のキャンプに様変わりし、公園を監視する人はいません.現在までに難民はルワンダヘもどることを決め、帰らない者はさらに西へと逃走したので、もはや公園周辺に難民たちの姿は見られません.しかし、幹線道路が閉鎖されているためしだいに食料不足が深刻になっています。公園内では銃やワナによる猟が急増しているようで、すでにゾウが34頭殺害されたという報告も出ています.まだゴリラが傷ついたり殺されたりしたというニュースは入っていませんが、このまま放置されれぱ野生動物は根絶やしにされてしまうでしょう。ゴリラやチンパンジーも例外ではありません。

  現在、私はバサボセさんと協力して各国のNGOや研究者と連絡をとり、政府軍にとっても反政府軍にとっても将来の貴重な財産である自然資源を破壊することがないように呼びかけようとしています。しかし、なかなか平和のきざしは見えず、依然として現地のポポフとは違絡がとれない現状にあります。

 阿部知暁画

 

東ザイール、とくにカフジ・ビエガ国立公園周辺の人と自然の現状

バサボセ・カニュニ
  ザイールは生物の多様性に富む国として、世界で最も重要な国の一つとされています。アフリカの熱帯雨林の半分以上がザイールにあり、なかでもザイール東部はゴリラやオカピなど特異な動物相を誇っています。カフジ・ビエガ国立公園は、絶減の危機に瀕する東ローランドゴリラの避難林となっている、起伏に富む山地林を保護しているのです。

 国立公園の設立は、同時にこの森林で生活のすべての糧を得ていた人々(ムプティ人)を追い出す結果となりました。以来、これらの人々は自分たちの生きる権利を暴力によって剥奪されたと見なすようになりました。また、公園周辺で暮らしてきた他の人々も、公園の設立によって森で薪を採集したり猟をしたりする当然の権利を侵害されたと考えるようになりました。

 これらの考えをもつ人々と守られるぺき自然との関係をどう変えていくかが、1970年の公園設立以来、ザイール自然保護局の大きな課題となったのです。公園当局は毎日監視員を派遣して森をパトロールし、不法に侵入した人々や家畜を公園から出す努力を重ねてきました。しかし、不幸なことに地元の人々は公園の存在をなか認めようとはせず、相変わらず野生動物を狩り続けました。保護地域を認めないという人々の態度は、貧困、人口密度の増大、土地の疲弊という第3世界の悩みがこの地域でも深刻化することによって一層強固になっていったのです。この地域は昔から肥よくな土地として知られ、多くの入たちが移住してきて農耕に精を出してきた歴史をもっています。しかし、現在の人口はすでに1平方kmあたり300人を超えており、土地ももう連作が不可能なほどやせてしまっています。ここ数年、多くの人々は飢餓に苦しんでいるのです。

 この行き詰まった状況を打開しようとして組織されたのが、ポポフと呼ぱれるNGOでした。ポポフの主たる目的は、公園の周辺に生きる人々が協力して何とか自然資源を破壊せずに豊かに生きる道を見つけることにありました。その一つの象徴的存在が、この地域の人々のアイドルとなりつつあったゴリラだったのです。

 ポポフのメンバーは、この目的を達成するために保護の方策は必ず地域の発展を視野に入れなけれぱならないと考えました。以来、ポポフはさまざまな方法で、地域の発展と保護を両立させる取り組みに挑んできました。まず、ポポフは民芸品を共同制作することで多くの人々とのフォーラムを実現させました.ゴリラを素材にした手作りのTシャツ、彫刻、ペンダント、ワッペン、絵はがきを作ることで人々のゴリラヘの関心を引き出し、そこから自然保護の必要性を普及しようとしたのてす。この活動に参加した多くの人々は、ゴリラが暮らしている自然に強い関心を示し、それが自分たち人問の暮らしにも直結していること、豊かな自然の存在が土地の人間にとってかけがえのないものであることを強く認識するようになりました。そして、土地の伝統の香りをのせた民芸品が売れることで、自分の手による制作物が他の世界に紹介されることで、自分の生きる世界の広がりをもう一度見つめ直すようになったのです。

 残念なことに、昨年10月に起こった地域紛争のためにポポフの計画は中断を余儀なくされています。その不幸な結果として、公園内では密猟や森林の伐採が相次いでいます。反政府軍の侵攻によって、数万人の地元の人々や難民たちが一斉に公園内に逃げ込み、貴重な自然資源を踏み荒らすことになりました。

 今は一日も早くこの地域に平和がもどり、人々が安全に暮らせる日が再ぴやってくることを願ってやみません。自然保護に関心のある国際組織にこの地域を救う重要性と緊急性を訴え、ポポフがこれまで行ってきた努力を無にすることのないよう働きかけていこうと思っています。


ビチブ・ムフンブーコ画

 

 ゴリラの生息数調査

山極寿一
 カフジ・ビエガ国立公園は約6000Iの広さをもち、全域にゴリラが生息しています。そのうち標高1800m以上の山地林は約600km2で、1970隼代の終わりと1990年代のはじめにゴリラの生息数調査が行われており、ゴリラの数がかなり正確にわかっています。これらの記録によると、1979年には223頭、1990年には258頭のゴリラが数えられています。1980年代に入ってからのゴリラの保護政策が効を奏し、ゴリラが絶滅の危機を脱してしだいに増え始めた兆候が見てとれます。

 しかし、1994年に隣国ルワンダで内戦が起こり、多数の難民がこの国立公園の周辺に住み着くようになりました.薪をとりに公園内に侵入したり、ワナをかけたり家畜に草を食ぺさせに入ってくる人々が急増しました。ゴリラと人間や家畜が接触する機会が増え、病気に感染するゴリラも増えたと考えられます。

 そこで、昨年6月と7月に再度生息数調査を行ってゴリラの分布と生息数を確かめ、その結果に応じて新たな保護の対策を立てようということになったのです。WCSの呼びかけに応じて私たちはザイール、アメリカ、日本の合同チームをつくり、ドイツの技術援助のもとに調査を実施することができました。日本からは私の他に、京都大学霊長類研究所の大学院生松原幹さんが参加しました.私たちは3つから4つのチームに分かれ、600km2の地域をI0日から2週固で踏破できる地域に分割し、チーム同士が無線で連絡を取り合いながらゴリラの新しい寝場所を探して歩き回りました。ゴリラは乳離れをする年令になると、毎晩ペッドをつくって眠るようになります。ペッドには必ず体格に対応した犬きさのフンが残されているので、ペッドの数とフンの大きさを計れば、乳飲み子を除くゴリラの群れの構成が推定できるというわけです。

 調査の結果は現在分析中ではっきりしたことは言えませんが、1990隼の頃と比べてゴリラの生息数は少し減少しているようです.集団の数はほとんど変わっていないので、この6年間でゴリラの死亡数が出生数を上回ったことになります。私はちょっと気になるゴリラの群れを発見しました。それは11個のペッドからなる群れでこの大きさの群れなら当然たくさんの子供がいるはずなのに、全く小さな子供のフンが寝場所に見当たらなかったのです。2日続けて新しい寝場所を調査していますから、見落とすはずはありません。ひょっとしたら、伝染病か事故で子供たちが全滅してしまったのかもしれません。このあたりにゴリラの天敵のヒョウは生思していないので、事故ならば人間による可能性が高いでしょう。

 さらに、1990年に比べてゴリラの生息する範囲がずっと狭まっているという印象を受けました.90年にもゴリラは保護の手が行き層いている公園の中心部に集中して分布する傾向がありましたが、今回はそれがもっと顕著で、低地へとつながる回廊付近には全くゴリラの痕跡が見られなくなりました。同時に調査したチンパンジーやゾウも、やはり頻繁に侵入してくる人々や家畜を避けて生息域を縮めていました。1970年代には、フクログエノンというサルの声がどこでも聞けたものです。このサルはザイール東部の固有種で鼻筋が白く、「オオーン」という独特な低い声でなきます。今回の調査ではめったに声を聞けず、ついに姿を見ることもできませんでした。ここ数年で急激に数を減らしていると推測されます。公園内には以前にも増して多くのワナや焚き火の後が見つかり、だんだんこの公園が動物たちに住み難い世界になっていると思われたのです。

 昨年末に起こったザイール紛争で、ゴリラをはじめとする野生動物はさらに深刻な危機に直面しました。せっかく人間に馴れて、観光客の訪問を受け入れはじめたゴリラたちも、森へ逃げ込んだ人々に狩り立てられ、追い立てられて傷ついているかもしれません。人間不信になったゴリラも多いことでしょう。政情が安定化したら、ただちにゴリラの生息数調査を再開し、現状を調べなけれぱなりません。その時、まだ人間と共存できるゴリラがいることを願わずにいられません。 


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